ゴミ

脳のうんこ

今日も昨日と同じように重力が働いて手から放したものが昨日と同じように落っこちるように、多分揺るぎない自然法則というものがある。

 

なんとなく生物は物言わぬ石や水と違う存在のように思ってるけど、それも結局は必然的な化学反応の連鎖や物理法則に則った現象でしかなくて、人間の感情なんかもその例に漏れない。予測不能な変数のように見える生き物も自然法則の上で踊らされてるに過ぎない。

 

じゃあ全ての物事は自然法則に従った必然的な連鎖を起こしている訳だし、じゃあ未来に起こる出来事って今の時点でもう全部決まってるし、じゃあ運命って確実にあるじゃんって思った。ちょっと怖い。

 

今おれが食後に寝っ転がってこうやってこんな事考えてるのもおれが産まれた時点から、もっと遥か昔から決まってたんじゃん。

 

でも常に動き続けてるこの世のどこにどんな物質がどんな状態で存在しているか微粒子レベルで全て把握するなんて、今の段階では確実に、多分これからも無理だろうから、運命は確実に存在するけどその正確な全容はほぼ絶対知ることは出来ない。

 

仮にとある瞬間を切れ取れたとしても、ちょっとでも測定を誤ればそのミスがバタフライエフェクトのようにというか、手元では1mmの狂いだったのが着弾地点では1km離れてしまうように全く違う結果になってしまうかもしれない。それとも誤差に留まって同じ結果になるかもしれない。そのどちらかすらも分からない。

 

非常にモヤモヤする。運命が存在はするけど知り得ないもどかしさなのか?(この不安さえも含めて)全て筋書き通りの中で生きる事への実存的不安じみたものなのか?この気持ちは。分からない。

 

5部と6部では運命がテーマになってたっぽくて、イヤ運命があるなら抗うも諦めるも全部運命の内だし、考えるだけ無駄じゃない?って思ってたけど、こういう事を言ってたんだろうか。自由意志を信じてみるかという話だったんだろうか。今こうやって運命について考えているのがただの唯物論的な必然ではなく、魂的な要素によってなされてる可能性に賭けてみるかという事なんだろうか。

 

もっと言えばその自然法則もどうやって決まったんでしょうねって思う。世界に始まりがあったとしてもなかったとしても矛盾するような気がしてきて不安になってくるけど、こっちはなんかもう神様の仕業なんでしょうと思えば思考停止に近い形だけど一応の納得は出来る。人間のような意思を持った神様という存在を信じるというよりは、理解の及ばない領域に神様と言うラベルを貼って気休めにする感じだ。古代中世の人が神を信じる気持ちと現代のおれが神様を持ち出すのも、納得を得るための道具として使ってる事に自覚的であるかそうでないかの違いでしかなかったりするのかもしれない。

 

社会規範の規定はともかく、自然法則の説明という点で宗教の役割は終わって科学が出てきたと思ってきてたけど、優秀な科学者が意外と信仰心を持ってたりするって話もそういう事なんだろうか。